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明治6年(1873)大塩町に生まれる。昭和21年死去。
大正12年大阪市に生まれる。平成6年死去。
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★岡田播陽の略歴及び播陽の記述(出典:姫路市立「大塩公民館たより」1991年7月22日・NO.55号
責任者井澤恒年)
明治6年(1873) 1歳 大塩町に生まれる
9年(1876) 4歳 弟・三次生まれる
11年(1878) 6歳 祖父・得鳳死去
12年(1879) 7歳 弟・慎治生まれる
13年(1880) 8歳 岡田半耕(洗心洞に入門)に学ぶ
15年(1882)10歳 弟・良助生まれる
16年(1883)11歳 兵庫に出る
17年(1884)12歳 弟・良作生まれる
20年(1887)15歳 半耕死去
21年(1888)16歳 妹・千代生まれる
23年(1890)18歳 朝鮮・支那に遊学
25年(1892)20歳 十合呉服店(現・そごう百貨店)に入る
26年(1893)21歳 兄・勝蔵死去
29年(1896)24歳 播磨屋呉服店を創設
31年(1898)26歳 清風与平氏(清水焼窯元、現在も続いている)長女・玉と結婚
38年(1905)33歳 弟・良作死去
39年(1906)34歳 新村辰次郎氏、播磨屋呉服店に入店
41年(1908)36歳 長男・良一生まれる
43年(1910)38歳 妹・千代、長浜家へ嫁ぐ
44年(1911)39歳 次男・修二生まれる
大正 2年(1913)41歳 三男・誠三(私の父親)生まれる、次男・修二死去
3年(1914)42歳 四男・實生まれる
4年(1915)43歳 四男・實死去、母・りゑ死去
5年(1916)44歳 処女作『明けんとする夜の叫び』発行、長女・照子生まれる
昭和 3年(1928)56歳 播磨屋呉服店を閉鎖
5年(1930)58歳 『大衆経』発行
13年(1938)66歳 長女・照子死去
20年(1945)73歳 郷里・大塩町に帰る
21年(1946)74歳 4月22日、自宅で死去
●大塩が生んだ 町人学者 岡田播陽(岡田播陽研究会 連絡先:姫路市大塩公民館рT4−3178)
(注)現在は解散している。下記の新聞記事(転載)の日付再確認の要有り。
大塩というところは姫路市の南東に位置し、隣接を高砂市に囲まれ、南は播磨海に面した姫路市で唯一遺された自然海岸があるところで、かつては地名のごとく塩田で栄え活気を帯びた町で印南郡大塩町と呼ばれていました。昭和34年(1959年)、姫路市に合併し昭和46年(1971年)の流下式塩田の廃止によって数百年間続いた製塩業は廃止するにい至りました。明治30年(1897年)には、咸臨丸の航海士長を勤めた小野友五郎が、この地で採日製塩の指導にあたったと記録され、又、植物分類学者で有名な牧野富太郎博士が日本一の「のじ菊」群落地といい、昭和42年(1967年)、兵庫県
【直木三十五記念会館の内部】
直木三十五記念会館 主宰:からほり倶楽部 http://www.eonet.ne.jp/~karahoriclub/
●直木三十五年表●
明治24年 2月12日 大阪市内安堂寺町二丁目に生まれる。父、植村惣八、母しづ、父は古着商を営み、結婚後八年目の長男の誕生を非常に喜んだ。植村宗一と命名された。当時珍しかった幼稚園に通い、やがて桃園尋常小学校に入学。四年間優等であった。つづいて育英高等小学校へ、ここでも成績は優秀であった。
(記念館から提供された資料による)
明治38年(14歳) 大阪市岡中学校に入学、このころから書物の濫独がはじまる。図書館にもよく通った。弁論会で「試験亡国論」をぶって危うく処分されそうになる。水泳に長じ観海流で沖渡り五里の免状をものにする。
★大正 2年(1913) 大阪市に生まれる
昭和 11年(1936) 大阪外国語学校(現大阪外大)英語科卒業
昭和 11年(1936) 朝日新聞社入社
昭和 19年(1944) 『ニューギニヤ山岳戦』で直木賞受賞
43年(1968)まで、社会部および学芸部の記者、デスクを歴任、
同年3月定年退職
『定年後』、『自分人間』、『雪華の乱』、『電話の声』等の作品を発表
昭和 48年(1994)死去